法術を一言で顕すならば「識の力を使役する事により識本体の力を増幅する理論(法)と技術(術)」となります。
「識」とは今で言う「心」の事となり、識は「幽世と権体の連環により生み出される」要素となるのです。
幽世(かくりよ)とはイメージの世界(想像界)の事を示し、権体とは肉体の事となります。この「二つの要素が結びつき顕れるモノが「識」あるいは「心」と呼ばれる要素となるのです。
この二つの要素を結びつけているモノは魂と呼ばれる体験の記憶となり、その魂(体験の記憶)が波動共鳴により結びつき現象として顕現する事となります。
「現象として顕れるとは何を指しているのか」それは「認識」と呼ばれる要素として顕れる事となるのです。
皆さんが感じ思考している総ての世界は個人の認識により成っているのです。
それは世界(事象)について「認識しなければその世界は存在しない」事となるのです。
その事から皆が観て感じている世界は個人の認識により異なる世界を観て感じる事となります。それが識(心)の世界となるのです。
この事からヒトは識によって成り、権体は識を表現するための器となるのです。
以上がヒトの本質となるのですが、では活きる目的は何なのでしょう。
結論から先に示すならば「防御/攻撃/癒し/調和/叡智/自由」と呼ばれる識の要素を求める」事が「活きる目的である」と当派では考えられています(ヒトの歩むべき道)。
この事は識の誕生を段階1として始まる事となるのですが、その段階は防御と攻撃の段階となるのです。この段階の「防御や攻撃は己を護る事を優先し、そのためには他を害しても構わない」という思考が主体となるのです。
この識から生じる派生要素として「恨み/妬み/己主体の怒り」等の因果律を下降させる思考に囚われる事となるのです。この思考を闇へと誘うモノとして当派では邪気と呼んでいます(道理の通らない思考に囚われる)。
その事による癒しの働きは「己を正当化するための道理の通らない道を探し、つかの間の癒し(一時的安心感)」とする事となります(客観的道理を嫌い己の考えに固執する=主観的道理を好む)。
識の2段階は「調和を悟る(体得)」層となり、調和を会得した識は先に述べた「防御/攻撃/癒し」と呼ばれる要素を別次元の要素へと引き上げる事となるのです。
この段階は己主体ではなく「他も己であり、他は己の異なる性質を顕現しているにすぎない」識はこの思考の力に満たされる事となり、この派生として「慈愛」の識が芽吹く事となるのです。
識の3段階は「叡智の獲得」となります。
叡智とは「道理的向上の知識が集まり結びつく事により知恵となる」この「知恵が更に集まり結びつく事により叡智となる」事を表しているのです。
この事には「地の次元のみで語られる事ではなく」「天の次元が関連して起こる現象」となります。
この天の次元を常世(とこよ/恒久体験記憶=アーカシック・レコード)と呼び、この自然界に存在する記憶庫と地に在し体験記憶を生み出す媒体(ヒトを含む生命体)が連環する事により叡智と呼ばれる現象が起こる事となるのです。
識の4段階は「自由」を獲得する段階となり「識の最終段階である」と言われているのです。
ヒト(識)は常に不自由を体験しており、その不自由の中から自由に憧れている存在になるのです。
その事から「言葉では己は自由である」としながらも己である識は事ある毎に不自由を実感する事となります。
不自由とは束縛されている事であるのですが、自由/不自由は識の織りなす様相であるため「個人の事の捉え方(性格)」により起こる識の模様となるのです。
しかしこの層まで達した識は「生きる」を「活きる」へと変換しており更に叡智を獲得する事で事に対してその本質を観ているため識に「活きる事への迷いがない」ため識の自由を体現する事となるのです。
ここまで到達して本来のヒトの文明文化が始まる事となるのです(現在は識の1段階に該当する)。
以上の六要素(防御/攻撃/癒し/調和/叡智/自由)を「客観的流れにおいて歩みゆく」事がヒトの活きる目的と当派では考えており、その昔には六要素を体得(悟る)するための修練を識心の法と呼んでいました(ヒトが道明へと歩むべき道=神道)。
言葉や文字で六要素(六合)を語るのは簡単なのですが、この歩みは総て体験により培われるモノであるため、書や語りにおいて蓄えた知識を実際に行動として行わなければ体験の記憶とはならないのです(体得不可能)。
識の進化を阻むモノは「体験として知識を蓄えなければ意味がない」事となるのですが、ヒトの根本要素に欠如や脆弱性が存在するため「文字や言葉では理解しているのだが実践できない」と言う事が起きる事となります。
では根本要素とは何なのか。
それは「気導力/想像力/感応力(根本力)」と呼ばれる「識の力」と自然界の一部を構成している「ヒト摂理における法の知識が欠乏している」事が原因となるのです。
これら「根本力」と「自然界の法を体得」するため現代において伝えているのが法術となるのです。