当講座が通信で行う理由

本来精神的要素は皆通信で伝えられているのですが、皆さんは知っていますか?

例えば宗教の大半が通信講座なのです(一部の新興宗教を除く・現代は書籍をテキストとして行う教団もある)。

仏教は経典(書籍)によりもたらされ、その経典を読んだものが己の解釈と考えを他者に伝え広がっています。

キリスト教も聖書という経典により読んだ者の解釈が広げられ現代に至っているのです。

宗教魔術などの魔法と呼ばれる伝えもグノーシス系の伝承を基に想像(グリモア・ソロモン系の鍵や小鍵)され物語化(ネクロノミコン等神話)したものを読んだ後の人達がその想いをさらに延長し他者に己の理解を伝えたモノとなります(書を読んだ者の理解による儀式・術の創作)。

そして根拠となっている仏教経典やキリスト教経典・魔術経典等、それ自体作者の考えに基づき作成されたモノとなるのです。

このように古代から伝承されている精神的ものは書によって伝えられているのです。

この事からその「起源(真の根拠)は誰にも分からない」と私は言っています。

言い方をかえるなら現在にも残る伝承された精神分野は「師の存在しない通信講座」と言う事も出来ます。


昔この事を他者に言ったところ「そんな事はない私には師がいて書籍で学んでいるわけではない」等と強い批判を受けたこともあります。

しかし、書により学んでいるのです。

ただ、その書があやふや(言語や文字が現在とは異なるため)で意味が分からないため解釈できる者に聞いているだけにすぎません。その解釈も基が師のいない通信講座(書籍の解読・解釈)ですから己独自の解釈となり正しいわけではないのです(書に書かれている真義を伝えていない)。

つまり「一般で言われている師とは基を辿れば師のいない通信講座の書籍を独自に解釈した者が次の者(弟子)に伝え、その弟子が他者に伝える事により師と呼ばれるという連鎖を繰り返し現在に至っている」となるのです。

つまり「先生(伝える者)はいるが師(根本を知り教授できる者)は存在しない」と言う事です(現代分野法術の一派である科学等には教授可能な者は大勢いる=因果律思考(道理の積み重ね)によるため=師から師への伝承)。


通信講座で体得困難なもの

精神的なモノは通信で伝えられているのですが、では通信講座にて体得は困難(不可能に近い)なものもあります。

その事を簡単に言えば「肉体を駆使して行う術」がそれに該当するでしょう。

例えば「空手・柔道・剣道」等の武術はその典型となります。

武術の目的は他者から己を護ることにあり、そのためには対人修業をしなければ意味がありません。それは相手と様々な状況において術を体得(組み手・悟る)しなければ、そもそもの目的を果たすことが不可能となるからです。

美容と健康のために行う人もいるでしょうが、それは空手等を利用した体操となり武道ではありません。

このような目的(肉体の活用を主としているもの)により生み出されたものを通信講座で行うのは難しい事となります。


しかし、精神的な事に主体をおくものは逆に通信講座に適しているのです。

その理由について話しをします。


精神的な教えは状況・場を選ず本人の心次第となる

そもそも精神的分野は人の持つ能力に気づかせ活用するために発展してきました。

人は誰しも同じ能力・知性を持っています。

例えば通常、人が発揮できる力は九割であるとしましょう。総ての人が同じ割合にて生を受けています。天才も秀才も凡人も皆同じ割合で力を持っているのです。違いは残りの一割となり、この一割は如何に事を捉え活かすか無にするかという天の秤の領分でありこの秤の傾き具合により命運が天地ほどに分かれることになるのです。

この秤の事を古来より「天秤(あめのはかり)のことわけ」と例えを持って伝えられているのです。

つまり、人の力は天才も秀才も凡才もみな同じで九割の力を所持していて残り一割を「様々な知識習得・事の捉え方」等が奪い合うことになり、その一割を如何に活かすかによって秤は傾きその対価として命運に違いが生じるとなるのです。


このように個人の基礎能力に違いはなく神来理身としての力を所持しているわけです。

精神分野に求められる能力として「想像・気・感応」を主に使うことになるのですが、この力は人であれば誰でも持っていて意識・無意識のうちに使用してもいます。

精神的分野はこの力を制御しているだけにすぎません。


また、精神的分野は肉体的分野と異なり手取り足取り指導することが不可能なのです。

例えば精神的分野の主体となるのは想像・創造なのであり、瞑想(玄象)と呼ばれています。この瞑想を指導する場合「絵や口頭」により「こんな感じで行え」と言うように指導されていて実際に想像するのは指導を受けている本人となり、師はイメージする方法は伝えられるのですが、上手くいっているかどうかは分かりません(心の中を観る事は出来ない)。


このように師から教示されたことを如何に受けとめ修業に反映させるかは本人次第となる訳です。


古代よりの修業方と師の役

参考までに昔の修行法について話しをしましょう(以下のこと以外に法を説く事も重要な役となる)。

師が新しい術を教示する場合、型をやってみせます。

その後やらせてみて大体良ければ瞑想(主霊)にてその型を行うように指示されます。それが概ね出来ると弟子から申告されると、気のイメージ(術によって異なる)を砂絵等で教示され、そのイメージを行う事になります。

そのイメージが出来ると申告されたならば神咒と印を教示される事となり、そのイメージに追加するように指示され行う事になるのです。

この後は自己の演練(続けて何度も行う)となるのです。


以上が指導要領となるのですが、新たなる術の教示までは師はただ観ているだけとなります(師は大抵の場合は弟子に指示した課題の演練をさせている間己の修業を行っている)。

術を教え弟子の演練中は新たなる術を教示するまで師の役割は見た目には何もありません。

師は他者がみると何もやっていないように感じるのですが、実は重要な事を演練中に行っているのです。

それは二つの事であり、一つは演練中に周りから近寄ってくる雑想念を遮断し、弟子達の力に妨害が入らないように術を行う。

二つには時間管理となります。

人はもうこのくらいで良いだろうと少し辛くなると演練を止めようと心は動きます。それでは上達に影響が出てしまうのです。

人は十回行えと指示されそれまでは頑張るのですが、真の上達は辛いもうダメだこれ以上の回数は出来ないと感じた後の一回を行う事により気力が徐々に増幅される事になるのです。

師はそのために時間(演練の時間・期間)を管理して上達を速めているのです。

ただし、真の上達は本人次第となることは言うまでもないでしょう。


師の役をまとめると「道理・摂理(宇宙の摂理)の教授・術の教示・修業中に弟子達に迫り来る邪気等の排除・時間/期間の管理」の四つとなります。

私はこの事に基づき指導しているのです。

ちなみに道理や摂理と呼ばれる法を教示できなければ師ではなく先生となります。

つまり「自然界の摂理を説く事が難しく術だけ教えているのは先生となる」と言う事です(法術界での仕分けによる)。


さて以上が古来から世界で行われている法術の修行法なのですが、これらは時代の進歩と共に徐々にですが変化を遂げる事となります。

特に顕著であるのが法術の根幹となる瞑想の手段となるでしょう。

砂絵から絵画(掛け軸・携帯用の絵=現代で言うタローカード等)となり像(彫像・仏像)へと移り変わり行者も瞑想を行いやすくなっていきました。


現代では「人智学法術と共に進化してきた分野法術(科学技術)のお陰で望めば誰にでも法術を学べる環境が整ってきた」と言えるでしょう。

その事を師の役である4項目と修業方に当てはめて話すと次のようになります。

  • ★摂理の教示「現代用語の進歩とパソコン及び周辺機器により、テキスト化する事が可能となった。
  • ★術の教示「映像機器と周辺機器(パソコン含む)により師の動きを観る事が出来る」また「根幹の瞑想も同様に映像化する」事が可能となった。

以上の事により師の役を代行するシステムが構築された事になるのです。

あとは「時間管理」となりますがこれは本人次第となります(この事は師が側にいても行っている振りが出来るため今も昔も同じ)。


どうでしょう。現代では師が直接話さなくてもテキストを読むことで同様の働きをしています(かえって師が話すよりもテキストの方が分かりやすい場合が多い)。質問があれば電話やメールで訪ねることもできます。

型や瞑想も映像機器を利用すれば昔よりもはるかに理解しやすいと思います。しかも昔の方法では師は一度言ったことやって見せたことは二度行うことは基本的にありません。そのため相当の理解力とやる気がなければ法術は難しくて万人向けとは言えなかったのです。

しかし、現代ではテキストや映像により何度でも行う事が出来るようになりました。


ただし今も昔も変わらないのは「すべては己次第」ということです。

この事は総ての事に共通となります。そう、柔道や空手・体操のような肉体重視のモノもそして学業等の学び等の精神的なモノも最終的にはすべて己次第となるわけです。


このように現代では精神的な要素のモノこそ通信講座に向いていると言う事が言えると思います。


しかも当会は「多くの精神的要素のように師の存在しない通信講座ではありません」皆さんが行っている講座は「師(古代からの直伝=師から師へと連綿と続いている)が直接伝えている講座」ということを心得臨んでください。


法術の世界観

己を変える事により思考方も変わり

思考方が変わることにより

周りの環境に対する捉え方が異なる


その事により

目に見える世界から

見えない世界まで

その心に共鳴し

世界も異なって感じるようになる


さらに己が変化することで

周りの環境にも

さらなる変化を与える


この連綿とした流れの中で

心はこれまで体験したことのない

新たなる世界を観ることになる


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